■ インドネシア・ジャワ島中部のODAダム被害者住民
2010年11月2日から5日にかけてクドゥン・オンボ・ダムを再訪問するとともに、直線距離で南へ約100キロメートル離れたウオノギリ・ダムを訪問した。前回(今年7月)の訪問時には長期にわたる闘いにより、州知事から一定の移転補償を引き出したクドゥン・プリン村のリーダーであるダルソノ氏との会談を実現した。そのなかで、移転後20年を経た現在、政府の移転条件をなお不服として闘い続けている村があることが明らかになった。今回の訪問では、その闘いの最前線の村に入り、リーダーとの会談を実現した。
■ 強制移住に抗議して、未だに補償金の受取りを拒否
最初に入ったのはダム湖の最上流部に位置し、元の自分の土地の一部もしくは全部が水没した住民たちが住むクレイオール(Kreiwal)村である。この村の70家族は、あまりにも低い補償金を不服として軍隊による脅しに屈せず、未だに補償金の受け取りを拒否している。そして、ダム湖の水位が低下したときに現れる広大な土地で稲やトウモロコシなどを栽培し、新たな産業(ジャティーの樹=チーク材を使った家具作り)を興している。そして、住民たちの補償要求を正当だと判断した最高裁判決に基づく補償を求めて、州知事に対する行政闘争を続けている。
もうひとつの村は、クレイオール村の対岸に位置するグヌン・サリ(Geneng Sari)村である。この村の30家族は軍隊の強制で移転補償金を受け取った。しかし、ダム完成後にどこまで水没するのかという情報が知らされず、水位の上昇とともに何度も移転を余儀なくされた。その結果移転補償金をすべて使い果たし、行き場を失ってグリーンベルト地帯(ここは水没の危険があるため本来居住が禁止されている)にああ自力で村を建設した。政府はそこが非合法の居住であるため、家はもとより、道路や電気、井戸など生存に不可欠な一切の費用を補助しなかったのである。彼らは水没の危険の中でも、わずかな黙認耕作地で米やとうもろこしを栽培して生活しながら、安心して暮らせる補償を求めてクレイオール村と連携して州知事・政府に対する闘いを継続している。
■ コトパンジャン住民との交流
今回の訪問で、クレイオール村のリーダーであるトゥルース(Tuluis)氏、グヌン・サリ村のリーダーのトゥリモ(Trimo)氏、同じくバシルン(Basirun)氏と会談することが出来た。そして、来年3月にジャカルタでコトパンジャン裁判原告代表らとの会談を持つことを確認した。この会談が実現すれば、インドネシアで初めて日本のODAによる強制移転被害者が交流することになる。
そしてこの会談を踏まえて、来年7月に日本へ代表を派遣し、ODA被害を訴える国際会議を開催することが計画されている。この会議の成功は、コトパン裁判の控訴審での逆転勝利に大きく寄与するであろう。のみならず、過去・現在のODA被害を告発し、正当な補償の実現を求めるとともに、国益」追求に特化しようとしている日本のODAによる被害の拡大を阻止する全世界的なネットワーク形成の第一歩となるに違いない。
(2010年11月7日、事務局・遠山)
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日本で初めてのODAを問う裁判
日本のODA(政府開発援助)によるコトパンジャン・ダム建設で、インドネシア・スマトラ島では23,000人がふるさとを強制的に奪われました。5,396人の現地住民が原状復帰と補償を求め、日本政府・JICA(国際協力機構)・東電設計(=東京電力グループ)を被告として、裁判中です。
日本政府はODAの基本理念を「開かれた国益の増進」としています。「援助」とは名ばかりです。「国益」=グローバル大企業の利益のために、地元住民を犠牲にした「海外版ムダな公共事業」を行い、さらには原発までODAを利用して輸出しようとしているのです。
「国益」のための「援助」、住民泣かせの「援助」はやめさせましょう。ぜひ、裁判にご支援お願いします。
(ダムの呼称について)
インドネシア・スマトラ島の住民・自治体・マスコミは『コトパンジャン(Kotopanjang)』と言います。
一方、日本政府・インドネシア政府は本件ダムを『コタパンジャン(Kotapanjang)』としています。
Kotoは地元ミナンカバウ語、Kotaはジャワ語でいずれも「町」を意味します。現地の言葉・文化を尊重する立場から、私達は『コトパンジャン・ダム』としています。