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フィリピン・バタンガス港のODA被害者と交流


▲ 強制移転当時の現地新聞より

 2011年1月末、フィリピン・バタンガスを訪問しました。首都マニラから南へ約100kmの場所にあるバタンガス国際港は、トヨタなど日本企業の「進出」と合わせ、その輸出入のために建設されました。日本主導のプロジェクトで、ODAとして200億円以上が投じられました。
 現地では、PCAD(開発代案のための住民連合)議長、テルマ・マラナンさんの案内で、強制移住地3カ所を訪問し、住民からの聞き取りや闘いの現状を聞きました。

■ 軍隊が住民を強制排除。日本のODA史上初めての流血事件

 1994年、フィリピン政府は軍隊を導入して、住民達を暴力的に立ち退かせました。日本のODA史上初めて流血事態になったのがこのバタンガスです。「水と電気が止められた。その数日後の朝4時、突然兵士達が襲いかかってきて、家を壊し始めた。私達は抵抗したが、棒でなぐられ、銃をつきつけられた。催涙ガスも使われた。子どもが病院にかつぎこまれ、心臓発作で亡くなった人もいた。家だけでなく、私達の人生がぶちこわされた。日本に対して憎しみを持った」当時の様子を住民達はこう語りました。

■ 今も続く深刻なODA被害

 移転地は3カ所あります。特に港から離れた山中にあるシコ地区が深刻でした。「PPA(フィリピン港湾庁)や日本大使館は、『家も仕事もある。港での生活よりも安定した生活が得られる』と約束した。しかし移転地にあったのは、2.5メートル四方の竹とヤシで作られた粗末な家。すぐに虫に食われて壊れてしまった。」「一番深刻なのは仕事がないことだ。昔は、貧しいながらも希望があった。がんばれば、子どもを大学に行かせることもできた。しかし今では生活が成り立たなく、子どもを中学に行かせることさえできない。子どもに希望を持たせることができない。それが一番つらい。」住民達の悔しさ・やるせなさが胸に響きました。

■ 強制移転は違法。最高裁判所で勝利和解を勝ち取る。

  PCADは、強制立ち退きに対して2002年、最高裁で勝利和解を勝ち取りました。最後まで移転に抵抗した住民398世帯は補償金を勝ち取り、港の近くに自分たちのコミュニティを作りました。彼らは、最高裁では判断されなかった土地の所有権の問題と、最高裁和解書にあるにも関わらず未だに支払われていない精神的被害に対する補償を求めて、新たな裁判を行っています。「現在バタンガス港は民営化され、日本の三井と、ドバイの会社、フィリピンの会社が買った。日本人の税金とフィリピン人のローンで建設されたODA施設が、企業の資産に化けていく こんなことがあってはならない」「生活手段を失った住民には犯罪・麻薬・売春などを行う者もいる。ODAは日本企業とフィリピンの金持ち層が儲けさせるだけで、私達の生活・未来・夢を奪った。私達は、正義とまともな生活をかちとるために闘い続ける」テルマさん語ります。

(2011年1月30日、事務局・斎藤)


コトパンジャン・ダム
被害者住民を支援する会

〒162-0815
東京都新宿区筑土八幡町2-21-301
TEL/FAX 050-3682-0769
(IP電話に変更しました)

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Last Update : 2014/1/18
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日本で初めてのODAを問う裁判

日本のODA(政府開発援助)によるコトパンジャン・ダム建設で、インドネシア・スマトラ島では23,000人がふるさとを強制的に奪われました。5,396人の現地住民が原状復帰と補償を求め、日本政府・JICA(国際協力機構)・東電設計(=東京電力グループ)を被告として、裁判中です。
 日本政府はODAの基本理念を「開かれた国益の増進」としています。「援助」とは名ばかりです。「国益」=グローバル大企業の利益のために、地元住民を犠牲にした「海外版ムダな公共事業」を行い、さらには原発までODAを利用して輸出しようとしているのです。
 「国益」のための「援助」、住民泣かせの「援助」はやめさせましょう。ぜひ、裁判にご支援お願いします。



(ダムの呼称について)

 インドネシア・スマトラ島の住民・自治体・マスコミは『コトパンジャン(Kotopanjang)』と言います。 
 一方、日本政府・インドネシア政府は本件ダムを『コタパンジャン(Kotapanjang)』としています。
 Kotoは地元ミナンカバウ語、Kotaはジャワ語でいずれも「町」を意味します。現地の言葉・文化を尊重する立場から、私達は『コトパンジャン・ダム』としています。