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Last update : 2014/3/1
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日本で初めてのODAを問う裁判
日本のODA(政府開発援助)によるコトパンジャン・ダム建設で、インドネシア・スマトラ島では23,000人がふるさとを強制的に奪われました。5,396人の現地住民が原状復帰と補償を求め、日本政府・JICA(国際協力機構)・東電設計(=東京電力グループ)を被告として、裁判中です。
日本政府はODAの基本理念を「開かれた国益の増進」としています。「援助」とは名ばかりです。「国益」=グローバル大企業の利益のために、地元住民を犠牲にした「海外版ムダな公共事業」を行い、さらには原発までODAを利用して輸出しようとしているのです。
「国益」のための「援助」、住民泣かせの「援助」はやめさせましょう。ぜひ、裁判にご支援お願いします。
(ダムの呼称について)
インドネシア・スマトラ島の住民・自治体・マスコミは『コトパンジャン(Kotopanjang)』と言います。
一方、日本政府・インドネシア政府は本件ダムを『コタパンジャン(Kotapanjang)』としています。
Kotoは地元ミナンカバウ語、Kotaはジャワ語でいずれも「町」を意味します。現地の言葉・文化を尊重する立場から、私達は『コトパンジャン・ダム』としています。
-- ファジャール・R・フェスキー(リマプル・コタ)
上り坂でエンジンが唸るバイクを押し、パダン・エクスプレスは、プロウ・パンジャン地区にあるサフリ・Dt(*Datuak、ダトゥック、母系集団内の指導者につく称号)・パドゥコ・シマラジョの家に向かった。サフリ宅は、他の住民と比べて大きなお宅だ。床はセラミックで、壁にはクリーム色のペンキが塗られ、お宅がピカピカ光っているように思える。庭は広く、魚の池もある。
家の中で、孫を抱きながらサフリはテレビ番組を見ていた。我々が到着したとき、孫を娘、すなわちその子の母親のところにやった。「それで、我々が移転して20年、コトパンジャン水力発電所建設の影響について君たちは書こうというのかね?いいことだ。サポートしよう。私が手伝えることは何かね?」サフリはその言葉で会話を始めた。
シャツのポケットからタバコを取り出し、そのタンジュン・パウ村の村慣習法協議会(KAN)の副議長は話し始めた。サフリによれば、村になるずいぶん前、タンジュン・パウは豊かな森だった。
ムアラ・タクス(リアウ州カンパル県のムアラ・タクス)から彼らの祖先がその地にやってきた。
「我々の祖先はムアラ・タクスからやってきたんだ。みんなドモ氏族(*カウムがいくつか集って氏族、となる。母系の親族集団)だった。その頃、金の角をした先祖代々の水牛が行方不明になっていて、タンジュン・パウの昔の村の辺りまで探しにやってきたという。水牛を探していたのは2人の兄弟だった。それが、Dt・シパドゥコとDt・パドゥコ・シマラジョなんだ」とサフリは語る。
水牛を探しに、Dt・シパドゥコは川を辿っていった。住民が言うところの「前へ進もう、ササック船の船首の指す方へ(原文bajalan aja, mahuno kapa sasak)」である。一方、Dt・パドゥコ・シマラジョは陸路を進んだ。「陸地を行こう、テンニンカが迎えてくれる(bajalan darek, manitih kalimuntiang、*テンニンカはフトモモ科の常緑低木)」である。
タンジュン・バリット(隣村)に到着し、Dt・シパドゥコとDt・バドゥコ・シマラジョは、探していた水牛を見つけたものの、水牛はすでに死んでいた。水牛の死骸は埋葬され、金の角は捜索団によってムアラ・タクスへと持ち帰られた。
「当初、二人のダトゥックも、ムアラ・タクスへ戻ることを望んでいた。しかし、ムアロ・スンガイ・ランセックの地区に着いた時、Dt・シパドゥコは立ち寄るという選択をした。弟のDt・パドゥコ・シマラジョも同じことをした。私の先祖は、こうして、今はプロウ・コト、もしくはクパラ・コトと言われている場所に留まったんだよ」とサフリは話す。
プロウ・コトやムアロ・スンガイ・ランセックという地域は、昔のタンジュン・パウ村に存在していた。現在は、サフリも認めるように、タンジュン・パウの文明を裏付けるような歴史的な場所などは、すでに沈んでしまった。日本の借款によるコトパンジャン水力発電所ダム建設に伴い、沈んでしまった。
昔のタンジュン・パウ村にあった2カ所にとどまったDt・シパドゥコとDt・パドゥコ・シマラジョはコト(ミナンカバウにおける村の前身である*集落の単位)をつくることにした。「彼らはアンキ地区にコトをつくったんだよ。それは昔のタンジュン・パウの狭い道の近くで、コト・ラモって名前にした。そこで、Dt・シパドゥコは川の近くに住んだ。Dt・パドゥコ・シマラジョは陸地に暮らした」サフリは続ける。
日々が過ぎ、コト・ラモに暮らすDt・シパドゥコの一族とDt・パドゥコ・シマラジョの一族はます発展した。それで、ウジュアン・タンジュアンのエリア(これもまた沈んでしまったのだが)で大勢がマンディ(*沐浴)している際、村をたてたらどうか、というアイデアが浮かんだ。ただ、その時は義理の兄弟や舅姑がマンディに参加していたので、その後、2人のダトゥックが会議を開くことに決めた。
2人のダトゥックの間で、長時間の話し合いが行われた。当初、彼らは新しい村をタンジュン(*岬の意)村としたかった。しかし、村の端に、マンゴーの木(*パウというマンゴーの一種らしい)がなっていることが思い出され、そこで、タンジュン・パウという名前が付けられた。村をつくったばかりで、同じ氏族の出のカウムが2つしかなかったので、タンジュン・パウ村は正式に村となることをやめ、2人のダトゥックは、まずはカウムを増やすために動こうと決めた。
ある日、彼らはドゥバラン(もしくはフルバランとも言う*母系集団の役職、ダトゥックの補佐)と共にアンキ地区で魚を獲っている際、一人のダトゥックが、人が食べたあとのトウモロコシのカスを見つけた。上流に人の生活がある、と確信し、そのダトゥックは、魚獲りをやめさせた。そして、川を辿り、先ほど流れてきたトウモロコシの食べかすの持ち主を捜したのである。
タラタック・ドゥリアンという名の地区に着いた時、ダトゥックの一行は人の集団を見つけた。その集団に、タンジュン・パウ村へと引っ越しするように進めたが、あまりよく思われなかったようだった。彼らの理由は、タンジュン・パウ村へ合併すれば、タラタック・ドゥリアン地区に住むことになるだろうが、ここは自分たちが住んできた村だという意識があったからだ。同意が得られなかったので、カンダン・コベックという地区で、関係者たちの協議が行われた。
その協議の結果、カンダン・コベック合意が結ばれた。その合意とは、タラタック・ドゥリアン地区に暮らす人々は、慣習指導者の称号を得ること、畑地を用意すること、沐浴場を用意することを条件に、タンジュン・パウの人々とともに暮らす用意がある、ということだった。タンジュン・パウの2人のダトゥックは同意し、彼らの指導者に、Dt・マジョという称号を与えた。
それ以降、3人のダトゥックがタンジュン・パウ村に暮らすこととなった。間もなくして、ピアマン(パリアマン)というところから、一団が村にやって来た。彼らはウピア船、バナナの葉などでできた船でマハット川をやって来たのであった。ドゥバランが彼らの来訪を知り、捕らえて3人のダトゥックのところへ面会させた。
対面して分かったのが、ピアマンからの一団は、母系の氏族がおり、すでにプンフル(*慣習の指導者の高位、いくつかの母系集団をまとめる指導者であることが多い)がいるとのことだった。彼らの氏族はピリアン(*ミナンカバウにおける氏族の一種)だった。彼らのプンフルは、Dt・マングアンという称号だった。彼らは、新しい村を探して川を辿って来たという。望んでいた以上の成果で、彼ら一団は、タンジュン・パウ村に受け入れてもらうことになった。
結果、タンジュン・パウ村には4人のダトゥックがいることになった。しかし、問題が起こった。Dt・パドゥコ・シマラジョの実の兄弟であるDt・シパドゥコが、現在リマプル・コタのラレ・サゴ・ハラバン郡シタナン・ムアロ・ラキン村である地域から来た船乗りの娘と結婚しようとした時に問題が起こったのである。
結婚に際して、Dt・シパドゥコは男の子を授かっていた。ある晩、子どもがぐずってしまった。眠るよう、子を抱きながらDt・シパドゥコはこういった。「小さな子どもよ、早く大きく育っておくれ、大きくなったら、お父さんがお前を、4つの氏族を束ねるダトゥック(*4つの氏族を束ねるとは、すなわち村のトップの指導者ということ)にしてやるからね」
これがどうもDt・マングアンの耳に入ったようだった。彼らはタンジュン・パウに住むように誘われた集団だったので、Dt・マングアンはとても気を悪くした。彼は考えた、もし将来、Dt・シパドゥコが実子を4つの氏族を束ねるダトゥックに据えようというのなら、自分たちは何の為にタンジュン・パウに住むのか、と。
心が揺れ、Dt・マングアンは自分の子孫たちを連れ、タンジュン・パウからプロウガダン地区へと移ってしまった。現在、プロウ・ガダンもコトパンジャン水力発電所ダム建設によって沈んでしまい、再びプロウ・ガダンと名付けられたリアウ州カンパル県の新村へと移転している。
Dt・マングアンが村を出て行こうという時、Dt・シパドゥコはDt・パドゥコ・シマラジョ、Dt・マジョと共に引き止めようとした。しかし、引き止めることができたのは、Dt・マングアンの子孫の一部のみだった。その他は、やはりプロウ・ガダンへと向かってしまった。この引き止められた彼らが、後に新しいプンフルの称号を得て、Dt・タン・シマラジョとなった。王に引き止められたダトゥックの意である。
「しかしやはり、Dt・マングアンが村を去ることになったのは、Dt・シパドゥコの実子がいたからだろう。大人になり、この息子はDt・ビジョ・ディラジョという称号を得た。氏族は、ピリアンで、もちろんシタナン・ムアロ・ラキンの母親の氏族なんだ」
つまり、タンジュン・パウ村には5人のダトゥック、Dt・シパドゥコ、Dt・パドゥコ・シマラジョ、Dt・マジョ、Dt・タン・シマラジョ、Dt・ビジョ・ディラジョがいることになった。1980年代、グヌン・レロより一族が村にやってきた。このグヌン・レロというのは、その一部がコトパンジャン水力発電所事業によって影響を受け、リアウ州のカンパル県に移転させられた村である。
グヌン・レロ村からの一族は、タンジュン・パウ村にて子孫を増やした。「諺にはこのようにある、小枝が枝になり、枝が幹となる。彼らは新しくプンフルをもうけることを許可され、その称号は氏族がピリアンのDt・レロ・マンクトとなった。結果、1980年代に、タンジュン・パウ村のプンフルは6人になったんだよ」とサフリ・Dt・パドゥコ・シマラジョは語ってくれた。
現在まで、この6名のダトゥックは、タンジュン・パウ村で重要な役割にある。ただ、サフリも認めるように、「昔は、ダトゥックといえば、子孫たちの問題を一手に引き受けるところで、以前の生活は、とても家族的なものだった。今は、ダトゥックは未だ(*みんなの)規範と言えども、子孫たちはすでに個人主義的な暮らしをしているよ」とサフリは言う。
サフリと同じ調子で、我々の会話を静かに聞いていたイルワン・ハミッドも話に入ってきた。イルワンによれば、昔はタンジュン・パウの人々は、兄弟愛にあふれた暮らしをしていた。簡単な例で言うと、バナナを獲って来た人がいれば、その実は必ず人に分け与えた。「今はたとえ熟したとしても、ランブータンでさえ、獲る勇気のある人はなかなかいないよ」と話す。
生活様式の変化もさることながら、サフリも言うように、タンジュン・パウの人々は、ミナンカバウ人としてのアイデンティティを失うだろうこともあげられる。以前、カウムの偉大さの象徴としてのルマ・ガダンを有していた。ルマ・ガダンの柱は、彼らの本質である。扉は原理をたとえ、桁は敬意のあらわれである。何事も規定に基づいているものだ。壁は恥じらいを隠すもので、部屋は貴重なものをしまっておく場所、との意である。
現在、ルマ・ガダンはもうない。なぜなら、新村に越して来る際、昔の村で沈んでしまったようなルマ・ガダンを政府が用意しなかったからだ。
「政府は我々に、バライ・アダットも建ててくれなかったよ。政府によって用意された会議場はあるけど、建築様式は、ミナンカバウの慣習を象徴するものでなくなった。思い返すと心が痛むよ」と、サフリの話す声は震えていた。
少し間をおいて、サフリは我々に、冷めてきた紅茶を飲むようすすめてきた。共に紅茶に口を付け、彼は再びとぎれとぎれに話し始めた。サフリによれば、アイデンティティーが失われてしまったということ以外にも、タンジュン・パウ村のミナンカバウの人々は、特に前述のダトゥックたちに率いられるカウムは、実のところ、文化的な権利も何も無く、経済的にも自立することはなくなってしまった。
「慣習として、我々はもはや何の威信もなくなってしまったんだよ。例えば、ミナンカバウにおいて、村を建設する為の条件のひとつとして、マンディ場(*イメージとしては公衆浴場)がなければいけない、というのがあるが、現在我々には無い。タナ・ウラヤットもそうだ。たとえまだ目に見える形で残っていても、湖の向こうの高台だ。物理的に考えて、我々がやりくりできるはずもない。政府はそこを保護林だって言うじゃないか。登記がなされた土地でさえ、最近じゃあ保護林区に入ったって言うよ」サフリは語った。
彼は、タンジュン・パウ村の共有林については、保護林となっているのを政府に解除してもらいたいと願っている。「共有林は、一度も国家に引き渡したことなんてない。私たちは、政府が保護林を解除してくれないかと望んでいる。そうなれば、村の子孫の福利厚生のために、森林で耕作ができるんだ」とサフリ・Dt・パドゥコ・シマラジョが説明してくれた。
パダン・エクスプレスがサフリのお宅を後にした頃、ますます夜は深まっていた。イルワン・ハミッドのバイクのランプが点いたり消えたりしながら、我々はイルワンの義理のきょうだいの茶店に戻った。茶店では、未だに何人もの男性がチェキ遊び(*カードゲームの一種)に熱中していた。中には、テレビのモニターに映るサッカーの中継を待っているものもいる。一人ずつ挨拶をし、最後には失礼した。
パヤクンブからの長時間の移動で、我々は先に横にならざるをえなかった(*それくらい疲れていた)。夜は冷え、眠気は早くも我々を夢の世界へと連れて行った。鶏の鳴き声と、イルワンの母親が庭を掃き掃除する音で目覚めた。「早くマンディしなさい、もう朝だよ。まだ会う人がたくさん待ってるよ」とイルワンは言う。
マンディへと急ぐ頃、我々のお腹は刺すように痛んでいた。特効薬のひとつは、イルワンの家族がつくった、池の上のトイレである。マンディの場所からそう遠くない。ゴニ(*ジュート、黄麻)とお古の腰布でトイレは覆われている。イルワンの家族だけでなく、茶店を訪れた客も、水を流すためのバケツを備えたそこのトイレで用を足すという。
イルワンは、タンジュン・パウ村の公衆衛生や環境の問題は、まだまだ置き去りにされたままだと認めている。というのも、昔の村から新村に移転してきて、政府はこれまで真剣にこういった問題に取り組んでこなかったからだ。「今は池の上にトイレがあるだけで恵まれている。昔はまだたくさんの人がその辺で用を足していたからね。だからよく下痢、嘔吐、他の感染症などに罹りやすかったんだよ」とその朝、イルワンが教えてくれた。
その後、我々はマンディをし、きれいでフレッシュな水に身体が生き返った。「移転したての頃、水道(*上水道、生活用水の意)を得ることがとても困難だった。マンディだけじゃなく、飲み水さえも容器一杯に3000ルピアで買わざるをえなかったんだ。ここ数年、住民が運用する上水道がやっとできた。ようやく助かっているよ」マンディの場所の外で、イルワンが語った。