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Last update : 2014/3/2
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日本で初めてのODAを問う裁判
日本のODA(政府開発援助)によるコトパンジャン・ダム建設で、インドネシア・スマトラ島では23,000人がふるさとを強制的に奪われました。5,396人の現地住民が原状復帰と補償を求め、日本政府・JICA(国際協力機構)・東電設計(=東京電力グループ)を被告として、裁判中です。
日本政府はODAの基本理念を「開かれた国益の増進」としています。「援助」とは名ばかりです。「国益」=グローバル大企業の利益のために、地元住民を犠牲にした「海外版ムダな公共事業」を行い、さらには原発までODAを利用して輸出しようとしているのです。
「国益」のための「援助」、住民泣かせの「援助」はやめさせましょう。ぜひ、裁判にご支援お願いします。
(ダムの呼称について)
インドネシア・スマトラ島の住民・自治体・マスコミは『コトパンジャン(Kotopanjang)』と言います。
一方、日本政府・インドネシア政府は本件ダムを『コタパンジャン(Kotapanjang)』としています。
Kotoは地元ミナンカバウ語、Kotaはジャワ語でいずれも「町」を意味します。現地の言葉・文化を尊重する立場から、私達は『コトパンジャン・ダム』としています。
-- ファジャール・R・フェスキー(リマプル・コタ)
【写真(カラー顔写真):左よりイスワディ(村議会議長、コトパンジャン・ダム被害者住民闘争協議会議長*実際は事務局長)、スクラワディ(家を建てる土地がない住民)、イルワン・ハミッド(青年団団長)、タウフィット・JS(タンジュン・パウ村村長)
写真(カラー右):ザルミスとラヒマの夫婦は、家の前でピナンを乾燥させていた。
写真(白黒) 姿は変わらず:20年が過ぎたが、タンジュン・パウ村の住民の家々は、今だ姿形変わらないままだ。】
マンディと着替えを終え、我々パダン・エクスプレスは、インドネシア農民連合(SPI)西スマトラ地区代表に選出されたばかりの、タンジュン・パウ村の青年団団長、イルワン・ハミッドの母親イラスミが料理したナシゴレンを朝食にいただいた。この朝は実に喜ばしい時間だった。イルワンの弟が幼稚園に息子を送っていくというので、そのバイクを待ちながら、イラスミはホットコーヒーを用意してくれた。
「さあ、遠慮しないで。自分の家だと思ってね。お母さん、いつもお客をもてなすのは慣れているから。コトパンジャン水力発電所ダムの影響を調査しにきた大学生とか、SPIのイルワンの知人とか、しょっちゅううちに泊まるのよ。あなたみたく恥ずかしがり屋な子はいなかったわ」と、イラスミの言葉には誠実さがうかがえる。
イラスミが淹れてくれたコーヒーを飲み干すところで、イルワンの妹がやってきた。彼女のバイクを拝借し、タンジュン・パウ村をあちこち回った。この村には3つの地区(集落)がある。パサール・ブユ、プロウ・パンジャン、そしてコト・ラモだ。3つの地区を繋ぐ環状道路は、ひどく壊れている。区間によっては、村落自立のための住民エンパワーメント国家プログラム(*Program Nasional Pemberdayaan Masyarakat - Mandiri Pedesaan)や村落インフラ開発プログラム(*Program Pembangunan Infrastruktur Pedesaan)からの資金で修理されたばかりのところもあった。
コト・ラモ地区やプロウ・パンジャン地区に滞在している際、我々は、地方における開発というものがどれだけ矛盾にあふれているか目の当たりにした。コトパンジャン水力発電所建設の結果、沈んでしまった村々の移転事業は、どれだけの失敗をしたか目の当たりにした。新村に越してきて20年経っていても、住民の家はたくさん、姿形も変わらぬままだ。
「家を改築するなんてとんでもない、日々食べていくのでさえ大変なんだ。ラッキーなのは、私たちがまだこの暮らしに我慢できるということなんだよ」と、カットされたピナン(*ビンロウジュ)を、コト・ラモ地区の家の庭で乾燥させている最中のザルミス(53歳)とラヒマ(53歳)の夫婦は語った。この夫婦は、旧村では土地を所有していなかった。そのため、新村への移転後、彼らが手に入れることができたのは、家と少しばかりの畑地のみだった。
暮らしが成り立つように、ザルミスとラヒマはどんな仕事でもやった。「要は、食べれて、子どもが学校に通えることが大事」とザルミスは言う。
現在、ザルミスとラヒマには息子と娘がいる。息子グスフィ・アズワール(17歳)と娘メイシ・ザフラ(13歳)だ。「子どもたちはまだ学校に通っている。息子も娘もちゃんと成長して、家を改築できるように祈っているよ」と語ったザルミスは上半身裸であった。
ザルミスと同じように、何人かのご近所さんでも、1993年の移転当初に建てられたままの6×6メートルの家にまだ住んでいる人がいる。ご近所さんの間で、ザルミスは新村への移転の際に政府から補償金をもらった。しかし残念ながら、そのお金は生きていく為に使われ、もう何も残っていない。
「補償金だけじゃないさ、政府が各世帯2ヘクタールを用意したゴム園だって、食べるため、治療費のため、子どもの学校や、子どもの結婚のために売ってしまったんだ。最初は、こんな現象が起こるなんて信じていなかった。でも調べたら、これが真実だった」と、掘建て小屋で出会った、タンジュン・パウ村村議会議長のイスワディが教えてくれた。
イスワディによれば、ゴム園を売却せざるを得なかったタンジュン・パウ村の人は、92世帯に及ぶという。1世帯につき2ヘクタールということは、売却済のゴム園は184ヘクタールになるということだ。生活のため、住民はゴム園を売り、仕方なく労働者となる。その子どもたちは、多くが出稼ぎに行ったり、運転手として仕事している。
ゴム園を売るだけでなく、イスワディ曰く、政府が用意したほんの400メートル(*平米)の畑地でさえも、住民が徐々に手放してきている、という。新村へと移転して、経済的な負担がすごくかかるので、こういうことが起こるのだ。
村レベルでの行政府の長として、政府が用意した土地を売ってしまった住民を責めることを彼はやらない。「住民には他に選択肢が無いんだ。政府が用意したゴム園や畑地を売ってしまうのは、もっぱら生活のためなんだ。政府が20年前に植えた種で、今それが失敗の実となって住民が摘んでいるんだ」とイスワディは語った。
彼は、西スマトラ州リマプル・コタ県のアカビルルにあるパウ・サンシック村の女性と結婚している。そして、タンジュン・パウ村だけでなく、西スマトラとリアウの他の村でも、コトパンジャン水力発電所建設に伴う被害住民の移転事業プロセスにおいて、政府は失敗したと評価している。
「補償金の支払いプロセスに始まり、住民の移転、農園の分配、そして今に至るまで、政府によって施行されたプログラムは主に全て失敗している。ここが中ジャワのウォノギリでのガジャ・ムンクル・ダム建設の被害住民の運命と異なるところなんだ。彼らはダルマスラヤのシティムンというところに移転させられたのだが、健康で豊かな生活をしている。どうして知ってるかって?日本のジャーナリストと比較研究をしたことがあるからだよ」とイスワディは言う。
コトパンジャン・ダム被害者住民闘争協議会(BPRKDKP)創立者は、もちろん、口から出任せを言っているわけではない。事実、ダム事業で移転させられたタンジュン・パウの住民は、本当に被害をこうむっている。この記事の冒頭でも取り上げたシヌルリラのように、政府から補償金を受け取っていない世帯がまだ67世帯もある。ましてや、補償金を全く受け取っていない世帯も10世帯あるのだから。
ただ、以前インタビューをしたサフリ・Dt・パドゥコ・シマラジョによれば、補償金を受け取っていない10世帯については、かつて政府が対策を講じたという。「タンジュン・パウ村住民全員が移転させられた後、その10世帯は、アジズ・ハイリー県知事(当時)より、補償金を受け取って、ゴム園と農地の補償を受けるようオファーがあったそうだが、彼らはその用意が無かったそうだ。どうしてそんなことになってしまったのかは私も分からないのだが」とサフリは語っていた。
タンジュン・パウ村の慣習法指導者にカミングアウトは、イスワディも認めるところだ。「もちろん正しいよ、僕の母親を含め、10世帯に対して補償金を受け取るよう政府は言ったんだ。でもその補償金は納得いくものじゃなかった。だから、母親と他の9世帯は拒否したんだよ。ブキティンギの法律擁護協会(KBH-YPBHI Bukittinggi)、タラタックというNGO、今は多くが官僚になっているらしい当時の大学生の知人たちと、インドネシア政府を訴えて、さらに日本政府を訴えたんだ」とイスワディは話してくれた。
国内の訴訟では、コトパンジャン・ダム被害者住民闘争協議会に加わったものの住民は敗訴してしまった。「国内では、我々はまけてしまった。日本では、裁判のプロセスはまだ長いらしい。今もまだ終わってはいない」とのこと。西スマトラのNGO活動家たちから、よく彼は議長、と呼ばれている。
イスワディ自身、日本でのコトパンジャン水力発電所建設訴訟の裁判所での審理に同席したことがある。彼は裁判に向けて道を切り開いてきた人物で、熱心にメディアの裁判に関する国内外のニュースなどもクリッピングしている。中には、昔のタンジュン・パウ村の森に暮らしていたゾウたちが、コトパンジャン・ダム建設のため死んでしまった事件なども裁判で取り扱ったという記事もある。
「僕は日本にも行った。そこで、(*国会)議員の人からもサポートを受けた。彼らは、日本政府が、被援助国の住民を抑圧してしまう貸付を、これ以上供与することを望んでいない。今現在、我々のターゲットは、裁判で勝つか負けるかという問題では無くなっている。日本とインドネシア2国間の関係を壊しかねないからだ。ただ、我々が望むのは、インドネシア政府がコトパンジャン・ダムの問題に気づかないふりをしないでほしいんだ」と彼は述べた。
そのしっかりとした体格の男性から我々が分かったことは、タンジュン・パウ村の新村への移転は、ひどく危機的な新問題を生み出したということだ。
その問題は、新村で増加した第2世代の世帯が住む土地にもかかわることである。以前にも記載したが、1992年に政府によって移転させられた当時、タンジュン・パウ村の世帯数は312か313世帯であった。
現在、その数は膨れ上がっている。村役場のデータによれば、昨年9月時点でのタンジュン・パウ村に居住する住民の数は518世帯にのぼる。
パサール・ブユ地区には、住民は213世帯暮らしている。プロウ・パンジャン地区には153世帯、そしてコト・ラモ地区には155世帯が住む。「以前、移転の際、政府が用意した用地は312世帯分だけだった。現在、世帯数は増え518世帯になっている。つまり、新しい世帯が206世帯もあるということ。新世帯(*第2世代を現地ではこう呼ぶ)は今、住むところもない。家族のところに間借りしたままなんだ」とイスワディは言う。
たとえ新世帯が自立した生活を送るつもりであっても、イスワディ曰く、彼らは、住民たちが言うところの「残り物の土地」、つまり最も端っこの、測量した用地(*用地と用地の間に残った余りの狭いスペース)の残りに家を建てざるをえない。「想像してみてください、将来タンジュン・パウ村の人口がさらに増えたら、どこに住むというのか?丘の向こうに共有地はあるけれど、政府は保護林だって言う。これって、皮肉なもんだよね」イスワディの話だ。
彼の語りは真実であると証明されている。イスワディの住むところからそう遠くないある茶店で、我々パダン・エクスプレスはスクラワディ(52歳)と出会ったのだが、彼は、両親の形見である土地の補償金を未だに受け取っていない、タンジュン・パウ村の住民である。その土地はダム湖の向こうに位置するので、耕作が出来なくなっている。
スクラワディはこう話してくれた。昔のタンジュン・パウ村が政府によって沈められるという時、今は亡き両親のカイディールとサエラに、村のパラックナネ地区で1区画のゴム園があったと。「パラックナネ地区以外にも、さらに3区画、ブキックシタブア地区、ケロッククアリ地区、パニャピアン地区に両親の農園があったんだ」と彼は語った。
両親の形見の農園は、ダム建設で沈まなかったことは彼も認めている。というのも、それらの農園はダム湖の向こう岸の高台に位置するからである。「その農園はまだあるんだ。でも今はもう森になってるだろうけどね。でも、耕作しようにも、どうやりゃあいいんだい?そこへアクセスする道もないってのに」スクラワディの言葉である。
そのため、スクラワディは両親の代理として、政府を訴えたことがある。しかし残念なことに、彼の訴えは却下となった。そして、スクラワディが得た補償としてあるのは、思い出の廃墟となった両親の家の代替品としての住居1軒のみであった。新しい家で、彼は妻アウィニス(49歳)と5人の子ども、2人の嫁(*もしくは婿)、孫数名と共に暮らしている。
「私の子は6人いるんだ。長子のエドゥリ(*おそらく長男)は、義両親の家に暮らしている。2番目の子フェリ・アリアント(*おそらく次男)も、義両親のお宅。3番目の子ラスダヤンティ(*娘)は、旦那のナナンと共にこの家で暮らしている。4番目の子ヌル・フィトゥリアナ(*娘)も、旦那のアグスと共にこの家で暮らしている。5番目の子ジュルジヘリ(*性別不明?)は、亡くなったばかりで、6番目の子サンドラ(*おそらく女の子)は、まだ中学生なんだよ」と彼は説明した。
つまり、スクラワディから4つの世帯が分かれ、そのうち2世帯が彼と住居を共にしている。その2世帯は、家、もしくは避難小屋のようなものを建てる経済的な余裕がないわけではない。しかし小屋を建てる用地すらないのだ。「私たちには土地は無いんだ。だから、ひとつの家に共に暮らすしかないんだよ」とスクラワディはありのままを話してくれた。
下級政府であるタンジュン・パウ村政府の村長タウフィット・JS(42歳)は、住民たちが話す、コトパンジャン・ダム建設にかかわる1万にもおよぶ悲話の数々を、否定することはない。ただ、政府によって支払いが終えられていない補償金の問題については、我々は彼の職場で話をしたのだが、コメントをするのにとても慎重だった印象がある。
「移転と補償金の支払いのプロセスの際、私はまだ若かった。その後、出稼ぎに行った。だから、あまりよく知らないんだ。ただ、ほとんど木が植わっていなかったり、苗木が土に合わなかったりするゴム園というような住民の悲話は、本当にあることなんだ。よい状態のゴム園は、道路沿いにしかない。一方、奥の方に植えられたゴムは、たくさん失敗している」と、セメン・パダン高校の卒業生(*村長のこと)は我々に語ってくれた。
補償金に関するコメントは慎重だったけれど、村がこのコトパンジャン・ダムから得た補償は何か、ということを尋ねられた時、彼の血は煮えたぎったようだった。「それが問題なんだよ。ダム建設で住民を苦しめている問題は、まるでダムが糞を残して去っていったかのようだよ。それを受け止める住民の身体は、すでに黒く汚れていて、でも着る服もないからさらに汚れてしまう。表層水への税金も、我々は手にしていない。パダン(*州知事のところ)に行って、ダム湖周辺の緑化のための植林の費用とその苗木を要求したけど、今現在まで何も実現されていないしね」と彼は述べた。
タンジュン・パウ村の新村への住民移転が、十分すぎるほどの社会への影響を及ぼしたことは、タウフィット・JSも認めるところである。「昔、村で生まれたばかりの子がいたら、みんなで一緒に顔を見に行ったりした。バナナとか、灯油とか、生活用品をお祝いに持って。新村へ越してきて今、そういう思いやり(*とか行動)は減ってきている。昔、まだ小さかった頃、川があってそこで泳ぐことができた。でも、今我々の子どもたちは、どこで泳げばいいんだい?ダム湖かい?」と村長は話してくれた。
話の終わりに、タウフィット・JSは、コトパンジャン・ダム建設にかかわった国内の企業が、タンジュン・パウ村の人たちにとって具体的なCSR(企業の社会的責任)を果たすプログラムを行うことを要請していた。「県政府や州政府は、私たちの村のためになる水税金のことをちゃんと解決してほしいと思っている。もし水税金が無理なら、あちこち剥がれてしまっている私たちの村の道路を、アスファルト舗装し直してほしい」それがオープン大学学生(*これも村長のこと)の望みだ。
同じような希望をイルワン・ハミッドも語っていた。村長の職場を離れる前に、村の青年団の団長は、自分たちの村は、州政府よりもっと目をかけてもらってもよいのではないかと話していた。なぜなら、タンジュン・パウ村はコトパンジャン・ダム建設の被害者となっただけではなく、西スマトラとリアウの境界にある。「州境界線の守備役として、我々がもしまだ冷遇されているとしたら、それは(*州政府は)とても認識が甘いとしかいいようがないね」とイルワンが語った。(続く)